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Wikipedia~代役~ (1)

 漫画『ガラスの仮面』の二次小説

【注】
 単行本43巻の続きからのお話です。
 励ましの薔薇をもらい、お礼が言いたくてマヤは歩道橋で紫の薔薇の人を待つ。彼は来ない。週刊誌の記者にからまれ、花束を奪われる。取り返そうとするが、もみ合ううちに薔薇の花束が車道へと落ちた。一輪だけ無事だった紫の薔薇に、マヤは愛しき人への思いを込めて口付けをする。その姿を遠目から見た真澄は激しい衝撃を受ける。

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Wikipedia (2)

 Wikipedia  (2)




 次の休みの日、マヤは時間をかけて服を選びおしゃれをすると、真澄から渡された地図を頼りにその場所へ向かった。
 突いた先は都心の高層マンションだった。
 その先のことは。以前大都芸能で真澄に会ったときに指示を受けている。
 彼の指示に従って、マヤはエントランスの扉の前で地図と一緒に記載された部屋の番号を押す。
 ロックが解除されて扉が開いた。エレベーターに乗り最上階へと上がる。
 マヤの鼓動はエレベーターの上昇に伴って早鐘を打つようだった。
 最上階には扉が一つしかなかった。扉の前に立つと戸惑いながらもノブを回した。
 真澄はリビングで待っていることになっている。
 「こんにちは」
 玄関を開いた瞬間、甘い香りが漂ってきた。
 入ってすぐの玄関の棚に、紫の薔薇が花瓶に生けられていた。
 その花瓶の隣に白いハンカチが置かれている。
 マヤはそれを取ると、長い廊下の先を見据えた。
 両脇にいくつか部屋の扉があり、その奥の突き当たりの扉が、真澄の待つリビングだと教えられている。
 打ち合わせどおりに、靴を脱いで上がる。
 「お邪魔します」
 返事が返ってこないと分かっていながらも、恐縮して小さな声で言ってみる。
 緊張で冷たくなる手を擦ると、花瓶の横に置かれたハンカチを細くたたみ、目元に当てて頭の後ろでしっかりと結んだ。
 

 手探りで廊下を進む。
 突き当たりの扉に触れると、マヤはごくりと唾を飲み込み、高まる緊張の中扉をノックした。
 ゆっくりと、内側から扉が開かれ、マヤの目の前に大きな人の気配が感じられた。
 (紫の薔薇の人)
 思いが溢れ、マヤは目の前の彼に抱きついた。待ちに待った瞬間だった。
 「紫の薔薇の人、会いたかった。ずっとずっとあなたに会いたかった」
 真澄であるはずのその人は、いっこうに反応を示さない。
 感激のあまり大胆にも抱きついてしまったマヤは、相手が微動さえしないことに気づいて、我に返った。
 逃げ出したいほどの羞恥を覚えて、マヤの頬は真っ赤に染まる。
 慌てて彼から離れる。
 「ごめんなさい。私……つい……嬉しくて……私なんかにこんな……迷惑ですよね」
 大きな体が、スッと低くなる。
 そして彼女の手をとり、その掌に文字をなぞる。
 『そんなことはない。すまない。こんなにも君が喜ぶとは思わなくて……』
 彼の言葉は、マヤに分不相応を自覚させる。
 婚約者がいる身である真澄に、許されないことをしようとしている。
 マヤはハンカチを解いて踵を返した。
 刹那、その腕を真澄に掴まれる。
 「離してください」
 耳に馴染んだ低い声が聞こえてくる。
 「何を慌てる。ここで逃げたら君はこのまま阿古夜の恋が分からずに試演の舞台に立つことになるぞ」
 何も知らず平然とそんなことをサラリと言ってしまう真澄が、マヤは憎らしくなってくる。
 彼は自分の思いを知らない。そう思うと苦しくてたまらなくなる。投げやりな気分になってしまう。
 「分かっています。でも、あなたは笑うでしょ?
  こんな美人でもなく芝居しかできない私なんかが……本気で紫の薔薇の人を愛しているなんて、
  馬鹿だと思っているのでしょ?」
 「思わない。マヤ、誤解だ。君の事を笑ったりしない。
  約束するよ。ここでは、俺は速水真澄じゃない。
  君が恋する紫の薔薇の人で、君だけを愛する恋人だ」
 「分かりません。例え試演のためであっても、あなたは婚約者がいる人です。
  紫織さんがこんなことを知ったら、きっと傷つきます」
 「君もよく知っているだろ?仕事のためならなんでもする冷血感。
  それが俺だ。こんなことで一々傷つかれていたら、大都の社長夫人など務まらない。
  君が彼女のことを気にする必要はない。それに、これは君と俺だけが知る秘密だ。
  だから、誰の目にも触れないように、俺のプライベートマンションでしているんだろ?
  ここは紫織さんも水城君も知らない場所だ。君が誰かに打ち明けない限り、秘密が漏れることはない」
 「私、誰にも言いません。同居人の麗にも言うつもりもありません」
 「いい心がけだ。とはいえ、これはあくまでも稽古の一環。何もやましいことなどないはずだ。
  ……もっとも、君がベットでの愛の手ほどきを望むのなら話は別だがな」
 冗談めかして軽口を叩いた。
 「だっ、誰がそんなこと。絶対いいません」
 真っ赤になって背を向けながらも、握り拳を作って、思いっきり否定する。
 とは言うものの、心臓が口から飛び出すのではないかと思えるほどマヤは驚いていた。
 真澄はそんなマヤを見つめながら優しく笑い、話題を変えた。
 「紅茶とお菓子を用意してある。向こうに座らないか」
 マヤが頷くのを見ると、手を離した。床に膝をついていた真澄は立ち上がった。
 

 真澄が離れていくのを寂しく思いながら、マヤは振り返った。
 そこで初めてマヤはリビングを見渡した。
 広い部屋だった。大きな窓から明るい日差しが差し込み、床に反射していた。
 黒い革張りのソファーに、ガラスのテーブル。
 壁際には暗褐色のオーディオラックにホームシアターセットが備え付けられている。
 薄型の大きなモニターを凝視して、マヤはぽかんと口を開けた。
 奥のキッチンから、真澄が両手にカップを持ってやってくる。
 「これ、テレビなんですか?」
 「ああ、何か見るか?」
 テーブルにカップを置くと、真澄はリモコンでテレビをつけた。
 大画面で見る映像に、マヤは目を輝かせた。
 「すごい迫力ですね。まるで映画館みたい」
 「DVDが何本かあったはずだ。」
 真澄がラックから5枚ほど掴み取って、マヤに差し出した。
 彼女はごく自然な様子で接する真澄のことが気になった。
 マヤは手で差し出されるDVDのケースをやんわりと押し返した。
 「ありがとうございます。見たいけど、やめておきます。
  映画を見に来たわけではありませんから」
 「そうだな、……とりあえず、座るといい。紅茶が冷めてしまう」
 促されて、けれど、遠慮がちにソファーの端のほうにちょこんと座る。
 真澄はマヤから少し離れてゆったりと腰を下ろした。
 真澄は自分で入れたコーヒーを一口飲むと、灰皿を引き寄せた。
 「吸っても構わないか」
 「はい、どうぞ」
 そう言ったきり、マヤは居心地が悪そうに、ソファーやテーブルに視線を移していた。
 真澄は取り出した煙草に火をつけず、灰皿に置くと、マヤの手からひょいと、カップを取り上げた。
 マヤが驚いて真澄を見やる。
 真澄はテーブルに取り上げたマヤのカップを置くと、代わりにハンカチを彼女の膝の上から取った。
 それを、マヤの目に当てて頭の後ろで端を結んだ。
 「ここでは、俺の顔は見ないほうがよさそうだ。さあマヤ、稽古だ。
  君は恋人となった紫の薔薇の人の家に来た。一緒に過ごす午後の一時だ」
 マヤは戸惑いを見せて俯く。
 「待ってください。その前に聞かせてください。
  本当に、私のこと笑わないって言ってください」
 今まで彼女をさんざんからかい、傷つけていたことを、真澄は改めて思い知らされる。
 真澄は真摯に応える。
 「約束する。ここでは決して君の事を笑わない」
 マヤが、安心したように肩から力を抜いた。
 彼女の手をとると、先ほど取り上げた彼女のカップを、その手に返す。
 マヤがしっかりとカップを持ったのを確かめてから真澄は、手を離した。
 たっぷりミルクの入った紅茶を飲むと、マヤの心はすっかり落ち着きを取り戻した。
 手を伸ばせばすぐ近くに真澄がいる。彼女にとっては本当の紫の薔薇の人。
 自分が知っていることを、マヤは決して告げるつもりはない。
 少しでもいい、どんな形でも良い、真澄の傍にいられることが何よりも嬉しかった。
 真澄への溢れる気持ちを、紫の薔薇の人への愛として表現しようと固く心に誓う。
 目隠しは、真実を隠すには都合が良かった。真澄の顔を見なければ、素直に真澄に向き合える。
 彼の提案は、マヤにとっては願ってもないことだった。彼が結婚すればもうこんなふうには近づけない。
 今しか一緒にはいられない。
 これが最後なのだと思うと、マヤは今のこの瞬間が何よりも大切なものに思えた。




 【NEXT】


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 真澄は煙草を吸いながら、黙ってマヤの様子を窺っている。
 沈黙が続いたが、苦痛ではなかった。マヤの胸は甘く切なく疼き、トクトクと脈打っている。
 不意にマヤは口の端を綻ばせる。カップをテーブルに置いた。真澄が会話を待っているような気がした。
 思ったとおり、彼はすぐに彼女の手をとった。
 掌に文字が綴られる。
 『何か、面白いことでも思い出したのかな?』
 「いいえ。こうして、紫の薔薇の人と一緒にいられることが嬉しいんです。
  私、ずっと、前からこうしてあなたにお会いしたかったんです。
  長い間、どんなときも見捨てず応援してくださって、すごく励まされました。
  あなたがいてくれたから、私はここまで来ることができました。ありがとうございます。
  本当に、ありがとうございます」
 言っているうちに涙が溢れてきて、感極まって語尾は殆ど声にならなかった。
 下げたマヤの頭を、大きな手が撫でた。何度も何度も優しい手つきで撫でた。
 掴まれたままの左手に、指先が触れる。
 『あなたに、紫の薔薇を初めて贈ったのは、あなたが中学生の時だった。
  幼かったあなたもいつのまにか成長し、紅天女が演じられる女優にまでなった。
  我がことのように、嬉しく思っているよ。あなたを誇りに思う』
 マヤは彼の手を握り返すと、引き寄せて自分の頬を摺り寄せた。
 「紫の薔薇の人……」
 愛しています。その言葉をマヤは飲み込み、吐息をついた。
 彼は黙って、もう片手でマヤの髪を優しく撫でるばかりだった。
 彼女の右手に、彼は小さな塊が乗せる。左手にそれがチョコレートであることを教える。
 『有名なショコラティエが作ったトリュフだ。食べてみて』
 マヤは手に乗せられた塊を口にいれた。
 口いっぱいに入ったチョコレートをこぼさないように、唇をキュッと閉じて、マヤはもぐもぐと食べた。
 ほろ苦く濃厚なチョコレートの甘さに、マヤが自分の頬に右手を当てた。
 『おいしい?』
 マヤは大きく頷く。手にカップが渡され、その流れのままミルクティを飲む。
 なんともいえない贅沢な味わいにマヤはうっとりする。
 「こんなに美味しいチョコレート初めて食べます」
 彼女の右手に、彼はまたチョコレートを乗せる。
 『どうぞ、お姫様』
 マヤは急に肩をすぼめて、恥ずかしげに俯いた。
 「ありがとうございます」


 真澄は昨日のマヤとのやり取りを思い出して溜息をついた。
 別れ際に、真澄はマヤに携帯電話を渡した。
 必要であれば紫の薔薇の人としてまた会うといって。
 その携帯電話をマヤは胸に押し当てて、無言で頷いた。
 恋人といっても、目隠しをして終始ただ、他愛無い話をして終わっただけだ。
 それが、マヤの演技の役に立ったかどうかは、真澄にも疑問だ。
 真澄が偽りの恋人をマヤに申し出たのは、単なる嫉妬からだった。
 ほんの一時でも、ままごとのようなやり取りであったとしても、マヤの傍にいたかったのだ。
 だが真澄は後悔し始めている。
 マヤへの想いが今まで以上に募る。
 もう一度、あの閉鎖された空間で思う存分にマヤを見つめ、手に触れたくなる。
 時間を追うごとに想いは募る。
 
 マヤも同じだった。もう会ってはいけない。
 そう思うものの真澄に会いたくて堪らなくなる。
 もらった携帯電話に着信音がなることはない。マヤも使うことはない。
 それでもどこへ行くにも持ち歩き、思い出しては触れてみる。
 稽古を終えてキッドスタジオを出たマヤは、地下鉄に乗った。だが、家とは逆の方向の電車に乗った。
 行き着いた目の前のマンションを見上げる。
 先日訪れた真澄のプライベートマンションだ。
 会えるとは思っていない。マヤはマンションの玄関口から最上階を見上げる。
 そこからでは部屋に電気がついているかどうかも分からなかった。
 その場から離れられず、玄関前の片隅の壁にもたれて、彼女はいつまでもそこにいた。
 どれぐらいたっただろうか、壁から離れて、ようやく帰る決心かついた。
 後ろ髪を引かれながらも、駅へと向かう。
 黒いスポーツカーが一台、彼女の脇を低速で通り過ぎていく。
 下を向いてマヤがとぼとぼと歩いていると、先ほど通り過ぎた車がUターンして戻ってきた。
 パワーウインドウが開き、声をかけられる。
 「自宅まで送ろうか?」
 ナンパだと思って無視しようと思っていたマヤは、聞き覚えのある声にドキッと鼓動を跳ねさせ振り返った。
 「速水さん」
 運転席に座ってハンドルを握っている真澄は、車を止めて降りてきた。
 「もう9時前だぞ。こんなところで、こんな時間まで何をやっているんだ?」
 厳しい口調で真澄は叱りつけた。
 マヤは悲しくなってきて、目に涙をいっぱいに溜めた。
 「あなたがどうしてそんなに怒るんですか?私はもう子供じゃありません。ちゃんと自分で帰れます」
 駆け出して、真澄の横をすり抜けた。
 だがその手を真澄に掴まれる。
 「待て」
 「放してください」
 「怒って悪かった。こんな時間に一人で帰らせられない。送っていくから、乗りなさい」
 真澄が助手席の扉を開いて乗るように促すが、マヤは俯いたまま乗ろうとしなかった。
 「乗る気がないのなら、マンションへ来るか?」
 思わぬ誘いに、マヤは弾かれたように顔を上げた。
 真澄の瞳とぶつかり、マヤはまたすぐに、俯いた。
 帰らなければいけない。そう思うのに口は勝手なことを言う。
 「少しでいいんです。紫の薔薇の人に会えますか?」
 「君が望むなら」
 真澄は静かに答えた。
 



 【NEXT】


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 マヤは真澄に連れられて彼の部屋へ行った。
 廊下で出されたスリッパに履き替えリビングへと通される。
 彼はスーパーの袋を手にキッチンへと向かう。台所で買ってきたものを袋から出しながら、彼はマヤに声をかけた。
 「紅茶はあるが、生憎、君の好きなスイーツはないぞ」
 「気にしないで下さい。突然来てしまってすいません」
 「全くだ。で、夕食は食べたのか?」
 「い、いえ……でも、ホントおかまいなく」
 そう言った傍から、ぐううううう、と腹の虫を鳴らしてしまい、マヤは耳まで真っ赤になった。
 真澄は笑う。
 「ちょうどいい。俺も今からだ。すぐに用意をしてやるから待っていろ」
 マヤは慌てて手を振る。
 「いいです。そこまで厚かましくなれません」
 そんな彼女に、真澄は溜息をついて、キッチンから出てくる。
 扉の前でいつまでも立ち尽くしている彼女の目に手を当てた。
 「君は、紫の薔薇の人に会いに来たんだろ?」
 「そうですけど……」
 「ならば、目隠しをするといい。とにかく先に食事だ。腹が減ってるのは俺も同じだ」
 「ごめんなさい」
 「なぜ謝る?」
 「だって、速水さん忙しいのに私なんかに会いに来られたら迷惑でしょ」
 「そうでもない。一人でいるよりは、君といるほうがずっと楽しい。
  君といれば、会社のことも、煩わしいことも何も考えずにすむ。
  そういうわけだから気にするな。君は演技のために俺といればいい」 
 そう言って、真澄はマヤから離れてキッチンに戻った。マヤは真澄の後を追ってキッチンへ入った。
 「目隠しは要りません。私も何か手伝います」
 マヤは真澄に微笑んだ、紫の薔薇の人として。 
 自分には決して向けられることがないであろうと思っていたマヤの笑顔に、真澄は戸惑う。
 真澄は視線をそらして食事の用意に取り掛かりながら、苦笑する。
 「君には適わないな」
 マヤは、今だけ、と思いつつ、真澄の好意に甘えた。

 手際の良い真澄は、あっという間に食事をダイニングテーブルに並べた。
 魚介類のパスタに生ハムのサラダにスープとパンに、マヤの目は輝く。
 「速水さんってすごい。何でもできちゃうんですね」
 真澄は誉められて照れ隠しをするように呆れた顔でいう。
 「たいしたことはしていない。ゆでて炒めて和えただけだ」
 たいしたことありますよ、とマヤは嬉しそうに笑った。パスタを一口食べて、
 「美味しい」
 と感動する。
 「お店にも出せますよ。羨ましい。私不器用だから、何をしてもすぐに麗に怒られるんですよ。
 ほんと、何もできない。きっと、紫の薔薇の人が知ったら、呆れますよね」
 話しているうちに、だんだん声のトーンが下がって暗くなる。だが急にまた笑う。
 「すみません。私のことなんてどうでもいいですよね。……ホント、美味しい」
 真澄は一人ではしゃいだり落ち込んだりするマヤを、食べながら黙ってみていた。
 何も言わない真澄に、マヤは不安になって手を止めて視線を上げた。真澄と目が合う。    
 真澄は視線を逸らした。
 「君は、自分のことを何も分かっていない。どうしてそこまで卑屈になるのかも理解できない」
 マヤは重くなる口を開いた。
 「何でも持っている人には、何も持っていない人の気持ちは分かりません」
 「本当に何も持っていないと思っているのか?」
 逸らすことは許さないというような強い眼差しで、真澄は彼女を見つめる。
 「……私が何を持っているというんですか?お金も、家柄も、教養も……背も低いし、美人でもない」
 マヤの脳裏には、真澄の美しい婚約者が鮮明に蘇る。目に涙が溢れてくる。泣くまいと、唇を噛んで俯いた。
 食べ終えた真澄は席を立った。
 「だが、一つだけあるだろ?誰にも負けないものが」
 静かにそういうと、真澄は空いた皿を重ねてキッチンへと消えた。
 一人残されたマヤは黙って黙々と食べた。
 食べ終えたところで、真澄が湯気を立てた紅茶を彼女の前に差し出した。
 「俺が望んでも得られないものを君は持っている」
 じっと見つめるマヤに、真澄は更に言葉を重ねる。
 「君が、何の魅力もない人間なら、俺は見向きもしていない。
 長年のファンがいるということは、少なくともその人にとっては、魅力溢れる存在だということだ。
 君が卑屈になるのは、その人にとって失礼なことだとは思わないのか?」
 説得力のある台詞に、頬を赤く染めて、マヤが素直に頷いた。
 
 
 食後の紅茶を飲んだ後、マヤは食器を洗う真澄に近づいた。その背にそっと寄り添う。
 背中にくっつくように身を寄せてきたマヤに、鈍感な真澄はどうしたのかと、振り返った。
 「少しだけこのままでいさせてください。紫の薔薇の人」
 切ないマヤの声に、手の力が緩んで真澄は危うく持っている皿を取り落としそうになっる。
 口を開いたが出かける言葉を飲み込んだ。黙ってマヤを許し、真澄は燃え上がる嫉妬を抑え、胸の苦しみに耐えた。
 食器を洗い終えても、マヤは真澄の背に張り付いていた。
 濡れた手を拭くと、真澄は背中からマヤの腕を掴み引き寄せた。
 驚くマヤをクルリと反転させて背中から抱き締める。
 「振り向くな」
 振り返ろうとした彼女に釘をさすと、真澄はその体勢のままマヤの手を掴んでその掌に指で文字をなぞる。
 『遠慮は要らない。あなたと私は恋人同士なのだから』
 マヤの肩が小刻みに震え、ポタポタと涙が真澄の手に落ちてくる。
 真澄はやりすぎたかとうろたえた。
 彼女から離れようかと手を引こうとして、彼の右腕をマヤが抱き締めた。
 「あなたが好きです。愛しています」
 左腕でマヤを抱き締める。
 なぜ、自分に向けられた言葉ではないのかと、真澄は心の内で悲痛に叫んで、切なくマヤの髪に頬を寄せた。
 しばらく抱き締めたあとで、真澄はマヤの目にハンカチを当てて目隠しをした。
 『また、ここへおいで』 
 「でも……」
 躊躇うマヤの赤い小さな唇に、真澄は指先を当てて、口を塞ぐ。彼女が黙ると、真澄は彼女の手に文字を綴る。
 『私は、あなたに会いたい。マヤは?』
 名前を呼ばれることにマヤは胸を高鳴らせる。頬を上気させて小さく言う。
 「私も、あなたに会いたい」
 『先日渡した携帯は持ってる?』
 「はい。いつも持ち歩いています」
 『私からの連絡を待っていてくれたのかな?』
 マヤは申し訳なさそうに横に首を振る。
 「お守りなんです。役がつかめるように」
 『そう。私は待っていた、あなたからのラブコールを』
 真澄とは思えない積極的なアピールに、マヤは混乱さえ覚える。
 「ごめんなさい。メールします」
 『待っている。私もマヤにメールを送るから』
 「はい」
 真澄はそっとマヤの両肩を掴むと、顔を寄せ彼女の頬に口づけた。すぐに彼女から離れる。
ほんの一瞬の出来事に、マヤは呆然とする。
 キッチンから出る間際に、真澄はマヤのハンカチを解く。
 「家まで送っていく、帰る用意をしなさい」
 張りのある声で、真澄は恋人同士の甘い空気を瞬時に霧散させた。
 マヤがはっとして、我に返って、慌ててハンドバッグを取りに行った。
 リビングの入り口では、冷たささえ感じさせるほどの無表情の真澄が待っていた。
 マヤは肩を縮めて俯いた。
 彼に迷惑をかけた申し訳なさでいっぱいになる。
 先刻のやり取りがまるで夢のように思えた。
 マヤはもう二度とここへは来ないと決めて、彼のマンションを後にした。





 【NEXT】


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 ※ネタばれあります。ご注意ください。




 マヤは真澄と過ごした一時の思いを、阿古夜の恋の演技に生かし、猛特訓に励んでいた。
 そんなマヤの知らないところで、鷹宮紫織が青木麗と水無月さやかに接触し、紫の薔薇の人のことを聞いていた。
 真澄が紫の薔薇の人だと確信を得た紫織は、伊豆の真澄の別荘へと向かった。
 そこで、マヤの一ツ星学園の卒業証書とアルバムを見つけてしまう。
 紫織は激しく嫉妬の炎を燃やし、マヤの写真を引き裂いた。
 


 真澄のマンションで会って以来、十日が過ぎていた。
 稽古の休憩の合間に、マヤは真澄から渡された携帯電話を開いた。
 三日前に届いたメールにはこう書かれている。
 『いかがお過ごしですか?
  その後、稽古は順調に進んでいるのでしょうか?
  宜しければ、次の休日に、拙宅においでください。
  あなたの好きな、紅茶とケーキを用意してお待ちしております。   
                              あなたのファンより』
 マヤはそのメールをもう何度も読み返している。
 そのたびに、胸にぎゅっと抱き締めた。
 返信はしていない。もう真澄のマンションには行かないと決めているからだ。
 それでもメールを見るたびに意思が揺らぐ。

 

 鷹宮紫織が、マヤを訪ねてきたのは稽古の合間のことだった。
 キッドスタジオから車で走ること数分の場所にあるカフェで、紫織と向き合った。
 急に呼びたてたことを詫びながら、紫織は左薬指に嵌めている指輪を見せ付けるようにもう片手で触れた。
 マヤが指輪のサファイアに見惚れていることに気づくと、
 その宝石が自分の誕生石で婚約指輪として真澄から贈られたことを教えた。
 サイズが合っていないのだと困ったように言った。
 指輪の話の後で、紫織は紅天女の上演権のことへと話題を換えた。
 獲得するのが姫川亜由美なら問題はないのだと、しかしあなたなら大都での上演は見込めないと話した。
 紫織は顔を青ざめて切々と訴える。
 「マヤさん、あなたが速水をとても憎んでいることは知っていますわ。
  無理もありませんわ。速水のせいでお母様があんな目に……。わたくしだったら一生許せない。
 「でもマヤさん。どうか速水を許してやっていただきたいの。
  もう二度とあなたの邪魔はさせませんわ。わたくしが約束します」
 「あなたには信じられないでしょうけれど、速水はああ見えて本当はとても心のあたたかな優しい人なんですのよ。  でなければ、わたくし婚約など……」
 「わかっています」
 言い終わらないうちに、マヤがはっきりと答えた。
 「え?」
 紫織が耳を疑い、聞き返すと、マヤが思いつめた面持ちでもう一度繰り返した。
 「わかっています、私」
 真澄を激しく憎んでいると信じていただけに、マヤの台詞に紫織は衝撃を受けた。
 二人の会話が途切れたところで、付き人兼運転手の山岡が、紫織に時間を告げた。
 気を利かせて立ち上がったマヤの腕を、すかさず紫織は掴んだ。
 その拍子に、マヤの腕からハンドバッグが床に落ち、中身が散らばった。
 慌てて拾うのを手伝うふりをする紫織は、それを抜き取り拾ったハンカチと一緒にマヤのバッグへと戻した。
 何も気づいていないマヤに見送られ、紫織は車に乗ってその場を後にした。
 

 
 自分のバッグに指輪が入っていることに気づいたマヤは、すぐに紫織に返すために連絡をとった。
 指定された場所を訪ねると、紫織がオートクチュールの優美なウエディングドレスを着ていた。
 仮縫いの最中である紫織に指輪を返そうとしたが、話をそらされてしまう。
 喉が渇いたからと、紫織にブルーベリーのジュースを渡した。
 渡す際に、紫織の手からグラスが滑り落ち、ジュースがドレスに無残なシミをつけた。
 紫織の悲鳴を聞きつけて、真澄が駆けつけてくる。
 同じく騒ぎを聞きつけてやってきた係員が、椅子に置いていたマヤのバッグを掴んで追い出そうと渡してくる。
 呆然とするマヤは手渡されたバッグを床に落としてしまう。
 落ちた衝撃で鞄の中から指輪が転がり出てくる。光を浴びて青い宝石が輝いた。
 冷たい視線がマヤを突き刺す。
 言い訳をしたが、真澄は信じてはくれない。挙句、握り拳を作って怒りを露にする真澄に怒鳴られる。
 「紫織さんをこんな目に合わせて一体何が目的だ?」
 マヤはそんな疑いを真澄に持たれたことに驚き、怯んだ。
 真澄は完全にマヤを疑ったまま、更に言う。
 「君がこんな卑怯なことをする娘だとは思わなかった。信じられない。
  俺の目も曇ったものだ。君が俺を憎んでいるのは知っている。
  それだけのことを俺はしたからな。だったら俺を憎め。俺のフィアンセは関係ないだろ」
 愕然として、マヤは打ちのめされた。

 

 純白のドレスが台無しになり、ショックを受ける紫織を、真澄は鷹宮邸まで送り届けた。
 その後は社に戻り、やらねばならない仕事がいくつか残っていた。
 だがとても戻る気になれない。
 重要な仕事が残っていないことを確認したうえで、秘書に無理を言って直帰する胸を伝えた。
 向かった先は、マヤと影の部下以外知らせていないプライベートマンションだ。
 玄関に入れば甘い薔薇の香りがする。
 真澄は花瓶に生けられた薔薇を一輪抜き取った。
 明かりもつけず、暗いリビングに入ると、身を投げ出すようにソファーに座った。
 手に持った薔薇を見つめ、真澄は膝に肘を乗せうなだれた。
 マヤに対して、いつになく感情的になってしまったことを悔いた。
 彼女が指輪を盗んだり、紫織に嫌がらせをするなど信じられなかった。
 マヤはいつだって真澄に直接怒りをぶつけていた。
 それを今になって、婚約者であるという理由で紫織に酷いことをするとは考えにくい。
 わかりきっていることだった。なのに、言い過ぎた。
 丁寧に棘が取り除かれた紫の花弁を見つめ、真澄は長い溜息をついた。
 不安だったのだ。
 紫の薔薇の人として、マヤに渡した携帯電話にメールを送ったのだが、いつになっても返信をもらえなかった。
 そのことが、真澄を不安にさせていた。
 嫌っているはずの自分を、役のために受け入れるマヤが、
 この関係を終わりにしようとしているのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなる。
 小さな紅い唇から、秘めた情熱が、深い愛が、自分だけに注がれる。これ以上の喜びを真澄は知らない。
 いつでも触れられる距離で、同じ時間を過ごせるのなら、例えマヤが紫の影を見ていようとも構わなかった。
 会いたい。
 そう思っていると、胸の携帯電話が震えた。真澄はすぐに内ポケットから、それを取り出して画面を開いた。
 マヤからのメールだった。
 『マヤです。
  速水さん、誤解なんです。
  私、紫織さんの指輪を盗んだりしてません。
  ドレスにジュースがかかったのもわざとじゃないんです
                            北島 マヤ』
 真澄は素早く指を動かして、マヤに返信した。



 翌日、マヤは選びに選んだ装いで、家を出た。
 電車に乗った束の間、マヤは携帯電話を開く。真澄からの返信メールを見つめた。
 『明日の午後二時、マンションまでお越しください。
  紅茶とケーキを用意して、あなたをお待ちしています。
                          あなたのファンより』
 マヤの鼓動が高鳴る。真澄と会う瞬間をまるで急かすようだった。
 電車を降りると、マヤは走っていた。
 時間は充分にあった。にもかかわらず、ゆっくり歩くことができなかった。
 30分以上も早く目的地であるマンションについてしまい、マヤは待つべきか迷った。
 だが、はやる気持ちがインターフォンの部屋番号を押させる。
 鍵はすぐに開けられた。マヤは深呼吸をすると、エントランスに入った。
 エレベーターで最上階に上がると、通路の先のたった一つの扉が開かれていた。
 普段着の真澄が待っていた。早く誤解を解きたくて、マヤは必死で言い募る。
 「速水さん、私、指輪なんて盗んでません。信じてください」
 「分かっている。部屋で話そう。おいで」
 真顔で、マヤを手招きする。
 真澄を追って、マヤはリビングへと入った。広い部屋に、真澄の姿はなかった。
 見回そうとして、刹那、視界が塞がれる。ハンカチが目にあてられ、目隠しをされた。
 マヤは、訳がわからず抵抗する。
 「待って、速水さん。ちゃんと話を聞いてください。私わざとじゃ……」
 ふわりと、煙草の匂いとコロンの香りが鼻腔を掠め、真澄に背後から抱き締められる。
 驚きのあまり、マヤは絶句した。
 左手首をつかまれ、掌に文字がなぞられる。
 『会いたかった。早く、あなたとこうして、会いたくて仕方がなかった』 
 熱烈な言葉は一瞬にして、紫織とのトラブルを、マヤの脳内から消し飛ばす。
 マヤは言葉を失い立ち尽くす。胸の鼓動だけが、うるさいほどに激しく脈打っている。
 頬を撫でられたかと思うと、柔らかな唇がそこに押し当てられる。
 唇が離れると、マヤは手探りで彼に向き合い、恐る恐る彼の胸に抱きついた。
 マヤの背に逞しい腕が回され抱き締め返される。
 マヤは思わず彼の背に回した腕に力を込めた。
 しばらくの抱擁の後で、マヤはそっと顔を離し、見えない目で彼を見上げる。
 手を伸ばし、指先は彼の頤に触れた。彼の輪郭をなぞり、精悍な頬に触れる。
 思いが溢れ、口をついて出てくるのは……。
 「あの日、谷で初めておまえを見たとき阿古夜にはすぐにわかったのじゃ。
  おまえがおばばの言うもう一人の魂の片割れだと……」
 そっと真澄の腕から離れた。押さえきれない無上の喜びを噛締め、阿古夜の台詞に溢れる思いを載せて演じる。
 「……名前や過去がなんになろう。巡り合い生きてここにいる。
  それだけで良いではありませぬか。捨ててくだされ。名前も過去も、阿古夜だけのものになってくだされ」
 囁くように切なく言い募り、マヤは手を伸ばす。
 「おまえさまは……」
 一真の台詞を飛ばして続けようとそこまで言いかけたが、手を捕まれ強い力に引き寄せられた。
 顔に服の生地が触れたかと思うと、強く抱き締められた。
 もはや限界だった。マヤはハンカチの下で、瞼を硬く閉じた。
 「お願いです。たった一度で構いません。私を抱いてください」
 自分を抱く逞しい腕に、緊張が走るのがマヤにも伝わってきた。
 



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 *ご安心ください。15禁に指定されるほどではありません。




 マヤの大胆発言に、真澄は大いにうろたえた。
 応えられないでいると、マヤが更に言い募る。
 「最後のお願いです。紫の薔薇の人との思い出を私に下さい」
 真澄はマヤと体を離すと、華奢な手をとった。
 『ありがとう。あなたの気持ちはとても嬉しい。
  私もできることならあなたを受け入れたい。
  だが、軽々しく男に身を委ねるものではない。
  女性としてのあなたの価値を下げてしまう』
 
 「私、軽々しくなんて言っていません。
 あなただから、お願いしているんです。
 確かに、私はつまらない子供かもしれません。
 だけど、あなたは私のただ一人の魂の片割れなんです。
 例え、あなたと結ばれることはなくても、
 ただ一度、この身が愛しいあなたと一つになれるのなら、
 私はその思い出を糧に生きていくことができる」
 万感の思いを込めて言い募ると、マヤは逞しい胸に頬を寄せた。
 「あなたのために、阿古夜になりたい。愛しています。紫の薔薇の人」
 
 真澄の理性がプツリと、音を立てて切れた。
 小柄な体を腕に抱き上げ、寝室へ連れて行く。


 マヤは、柔らかなベッドの上に横たえられた。
 目隠しのせいか、不思議と怖くはない。
 奇妙なほど心はまるで湖面のように穏やかだった。
 目の見えないマヤに、大きな影が覆い被さってくる。
 唐突に、唇に柔らかなそれが降ってくる。
 ついばむように軽く吸いあげられた瞬間、マヤの体はビクリと敏感に震えた。
 そんな自分が急に恥ずかしくなる。けれど逃げる間はない。
 抱きかかえるように頭を押さえられ、唇を割って舌が差し込まれる。
 「んっ……!」
 初めての経験に驚き、思わず呻いてしまう。
 そんなマヤを知ってか知らずか、お構いなしにキスは次第に深く激しさを増す。
 マヤは息苦しさに喘いだ。
 気づくと体の線を確かめるように、真澄の手が服の上から撫で回している。
 真澄は唇を離すと、彼女の首筋に唇を這わせる。
 胸元からブラウスのボタンが緩められ、スカートが捲られ素肌を晒した太ももが撫でられる。
 恥ずかしさが頂点に達したマヤは体を硬直させた。
 それに気づいたらしく、真澄の手が止まった。
 やがてスッと彼が手を引いてマヤから離れた。
 マヤは慌てて上半身を起こした。
 「は、速水さん、あの……」
 怒らせた。そう思ったマヤは、離れていく彼を必死で引きとめようと言葉を探す。

 ベッドを降りた真澄は、驚いてマヤを振り返っていた。
 『紫の薔薇の人』ではなく、マヤは確かに彼の名を呼んだ。
 都合よく聞き間違ったなどとは到底思えないほど、はっきりとした声だったのだ。
 今すぐマヤの真実の愛が誰に向けられているものなのか問いただしたい。
 真澄は手に握り拳を作った。
 力を込めて硬く握る。激しく湧き上がった衝動を、そうやって押さえ込む。
 穏やかな口調を心がけ、ゆっくりと口を開いた。
 「秘書課の女子社員も勧める美味しいチーズケーキがある。紅茶を入れるから、リビングへおいで」
 やっとの思いでそれだけを言うと、逃げるように寝室から出た。

 一人取り残されたマヤは、リビングへと去っていく足音を聞きながらそっと目隠しを解いた。
 光を取り戻した瞳から涙が静かに落ちていく。
 真澄の残した台詞がマヤの脳裏に巡る。
 今しがた全てを奪うような激しいキスをしたというのに、まるで何事もなかったかのような涼しい声だった。
 未遂とはいえ、過ちに気づき、帳消しにしたいのだろうか。
 理由がどうであれ、受け入れてもらえなかったことは拭いようのない事実だった。
 胸に自嘲の念が広がり、マヤはフッと笑った。
 室内に目を向ける。そこはベッドとナイトテーブルだけが置かれた部屋だった。
 壁面にクローゼットがあり、反対側には大きな窓がある。
 リビングと同じ色の二色のカーテンがかけられている。
 厚地のカーテンは開かれ、窓側の薄地の白いカーテンが閉ざされていた。
 証明のつけられていない部屋は薄暗く、マヤ室内を眺めている間も刻々と夜の帳が下りてくる。
 ベッドの柔らかそうな大きな枕に視線を移した。
 そこで眠りにつくであろう真澄に思いを馳せると、幻影を閉じ込めるように胸に手を当て、瞼を閉じた。
 

 部屋を出ると、マヤは廊下の突き当たりにあるリビングへの入り口を見つめた。
 扉は開かれている。まるで入っておいでと、戸口で真澄が手招きをしているような気がした。
 誰もいないその入り口に向かって、マヤは深く頭を下げた。
 足音を立てないように玄関に行き、靴を履くと外へ出た。
 細心の注意を払ったつもりであったが、扉の開く音は思いのほか大きくなってしまった。
 真澄に気づかれることを恐れ、マヤはエレベーターへと走った。
 幸い、エレベーターは最上階近くに止まっていて、すぐに乗ることができた。
 振り返ったところで、真澄が追いかけてくるのが見えた。
 マヤは急いでエレベーターの扉を閉めるボタンを連打した。
 真澄が辿り着くよりも早く、扉は閉まり、マヤを乗せた箱は降下する。
 降りていくマヤを、扉の外から真澄が見つめていた。
 歪めた顔は、怒ってはいなかった。それどころか、酷く傷ついているようだった。
 まるで、母親に見捨てられた子供のようにさえ目に映る。
 決して開けてはならないパンドラの箱を、開けてしまったかもしれない。
 後悔が津波のように押し寄せる。
 たまらず、両手で顔を覆った。
 涙が溢れて止まらない。
 濡れた顔を拭こうとして、バッグを真澄の部屋に忘れてきたことに気づく。
 財布も携帯電話もすべて鞄の中だ。己の短慮にマヤはつくづくと嫌になる。
 マヤは大きな溜息をつきながら一階のエントランスに下りた。エレベーターの最上階である56階の数字を見上げ、マヤは項垂れる。
 今更真澄に合わせる顔はない。
 諦めて外へ出ると、ブレーキ音を軋ませて目の前に黒塗りのベンツが止まった。
 後部座席の扉が開き、車内から紫織が降りてきた。
  


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 鷹宮紫織は上品にスーツを着こなし、美しく化粧が施された顔は不機嫌を露にしていた。
 「ここが真澄様が所有されているマンションだと知り、伺いましたの。
  まさかあなたがいるなんて思いもしませんでしたわ……」
 不機嫌は明らかな怒りへと変貌し、突き刺すような鋭い視線がマヤを射抜く。
 視線の先が自分の胸元で止まっていることに気づき、マヤは見下ろしてはっとした。
 ブラウスのボタンが外れていた。
 しかも、上から二つのボタンだ。
 はだけた胸元から、下着の端が覗いている。
 マヤは慌ててボタンを留めた。
 紫織がつかつかと近づいてくる。
 
 頬で乾いた音が鳴った。
 マヤは驚き、殴られた左頬に手を当てた。
 「あなたという人はなんて汚らわしい。
  わたくしと真澄様はもうすぐ結婚するのですよ。
  そのわたくしの婚約者になんということをなさるの。
  あなただけは許せません。恥をお知りなさい」
 感情のままに紫織は怒鳴りつけ、息を切らした。
 脆弱な体質で、常に穏やかなお嬢様の激しい怒りにマヤは圧倒された。
 いつもの彼女なら、青ざめて震えて逃げ出したかもしれない。
 黙って罵倒を聞いていたマヤは、そんな紫織を眺めてクスクスと笑い出した。
 マヤの笑いは紫織の感に的確に触る。
 「何がそんなにおかしいんですの?」
 ヒステリックに甲高い声を上げる紫織に、マヤは明るい声で言う。
 「誤解です、紫織さん。私と速水さんがそんな関係なわけないじゃないですか?」
 紫織は意表をつかれた。それでも怯むまいと、問い質す。
 「では、なぜこんなところにあなたがいらっしゃるの?」
 「それは……」
 言葉を継ぎながらマヤは必死で言い訳を探す。
 視界の端に真澄がエントランスの奥のエレベータから出てくるのが映った。
 
 マヤは紫織にニッコリと微笑む。
 「紅天女の役を掴むためです。
  速水さんの部屋はここの最上階で、外の眺めがとても良いんです。
  女神として地上を見下ろす演技の稽古のために、速水さんが提供してくださったんです。
  おかげで役を掴むことができたんですよ」
 声を弾ませ、マヤは嬉しげに言う。
 言い終わる頃に、背後にあるマンションの自動扉が開いた。
 刹那、引き込むような強い風がエントランスの奥へと吹き込み、マヤの体は突風に揺らいだ。
 倒れそうになる体を、大きな両手が支えた。
 危ういところを助けられホッと安堵したのも束の間、自分を助けた相手を振り返りギョッとする。

 見上げた真澄は穏やかな笑顔を婚約者に向けていた。
「こんにちは、紫織さん。
 こんなところへおいでになり、どうかなさいましたか」
 婚約者の笑顔に誤魔化されまいと、紫織は真顔で詰め寄る。
 「失礼を承知で、あなたの素行調査をさせていただきました。
  一体ここで、北島マヤさんと何をしてらっしゃったのか……」
 そこまで言ったとき、マヤが声を上げた。
 「紫織さん。まだ疑うんですか?」
 押さえがたい怒りに紫織が振り返る。
 お嬢様が口を開くよりも先に真澄がマヤを嗜める。
 「マヤ、やめなさい」
 
 マヤは拳を作り食い下がる。
 「いいえ、黙っていられないわ。
  私はただ必死で紅天女を掴もうとしているだけなのに、
  頼によって速水さんなんかと変な誤解をされているんですよ。
  冗談じゃないわこんなおじさん」
 怒りながら、けれど真澄が口裏を合わせてくれるように、心の内で願っていた。
 最後の一言に真澄は敏感に反応する。
 そんなマヤを不機嫌に見下ろし、挑発を受けた。
 「ああ、そうだ悪かったな。
  上演権のためとはいえ、君みたいな子供と仲を疑われたんじゃいい迷惑だ」
 「子供じゃありません。
  とっくに成人して、お酒だってのめるんですよ。
  本当に失礼な人ですね。速水さんみたいな意地悪仕事虫と結婚してくれる人なんて、絶対紫織さんぐらいだわ。
  嫌われないようにもっと努力するべきですよ」
 「忠告感謝するよ。
  それだけ言いたいことを言ったら十分だろ。
  ちびちゃんはさっさと帰りたまえ」
 マヤの胸に忘れ物のバッグを押し付けると、真澄は穏やかに紫織に笑いかける。
 「紫織さん。
  これから食事にでようと思っていたのですが、宜しければご一緒にどうですか」
 眉根を寄せて表情を硬くしていた紫織の顔が、ぱっと明るくなる。
 「真澄様」
 真澄は鷹宮家の車を帰し、喜ぶ紫織を連れ立って、マンションの駐車場に向かった。
 立ち尽くしていたマヤは、完全に無視されていた。




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 *原作での紅天女の台詞は今回は全く引用しておりません。
  管理人が勝手に想像して書いてますので、ご不快に思われる方は、すぐにお戻りください。




 西の空が燃えるように赤く染まり、マヤの足元からは長い影が伸びていた。
 先ほどまで真澄が立っていた場所を見つめる。
 「さよなら、紫の薔薇の人」
 呟くと、踵を返して走り出す。
 堪えきれず、人気のない場所まで来ると、両手で顔を伏せた。
 漏れる声を必死で堪える。
 これが最後と、自分自身に言い聞かせ、感情のままに泣き続けた。

 暗い夜道を、マヤは線路沿いに歩き続けた。
 真澄がバッグを届けてくれたおかげで財布もある。
 所持金が心もとないわけでもない。
 泣くだけ泣いて心が軽くなった分、目が腫れて赤くなってしまった。
 そんな顔では電車に乗れない。
 一人で歩きたい気分にもなり、歩けるところまで歩くことにした。

 日中の気温に合わせて薄着で出てきた体には、夜風は肌寒かったが、それほど苦にはならなかった。
 歩道には、家路へと向かうサラリーマンや、OL,学生の姿がまばらにあった。
 それぞれに、帰る家があり、やるべきことがある。夢があり明日への希望がある
 マヤは空を見上げた。
 薄い街頭の光と、都会のスモッグに遮られ、星を見ることができなかった。
 何のためにここまで来たんだろう?
 紫の薔薇の人に、喜んでもらえると信じていたから、演劇を続けることができた。
 その大切な人を失った今、何を目標に演じれば良いのか?
 一人黙々と歩きながら、マヤは自問を繰り返した。

 

 「マヤちゃん、ごめん。僕にはどうしても、君を切ることなんてできない」
 桜小路がうなだれる。
 紅天女の試演が迫り、稽古は大詰めを迎えていた。
 黒沼チームでは、時間との戦いに日々稽古は白熱をしていた。
 主役のマヤは、日を追うごとにリアリティのある演技に磨きをかけていた。
 黒沼もこれなら試演もいけると思い始めた頃だった。
 またも主演女優がスランプに陥ってしまった。
 マヤの精彩の欠いた演技の連続に、桜小路の打ちのめされた様子。
 黒沼は今日も進展なしかと、頭をかく。
 本日の稽古の終了を告げようとして、思いとどまる。

 意気消沈の桜小路に、マヤが申し訳なさそうに声をかけていた。
 「桜小路君のせいじゃない。
  私の阿古夜がいけなかったの」
 「ねえ、桜小路君。一真もきっと今の桜小路君のようにつらかったんじゃないかしら」
 桜小路が、顔を上げた。
 「マヤちゃん」
 「女神として怒る紅姫も、きっと辛かったと思うの。
  だって、紅姫の中には、一真を愛する阿古夜がいるでしょ?」
 話すうちに、マヤがはっとしたような顔をした。
 「……そうよ、そうなんだわ。やりましょう桜小路君。きっとできるわ」
 桜小路は自信のない顔をしながらも、彼女らしさを取り戻したマヤに合わせる。
 「わかったよ」
 主役の二人のやり取りを見守っていた黒沼を、マヤが振り返った。
 「監督、もう一度やらせて下さい」
 黒沼は大きく頷いた。

 桜小路は稽古用の長い棒を斧代わりに手に持ち、マヤと向き合う。
 一度伏せた目を上げ、斧をを手にする一真を、激しい憎悪を燃やした目で睨む。
 ビリビリと張り詰めた空気の中、桜小路の一真は負けじと強い視線を返す。
 相手の心の奥底を覗くような無言の睨み合いが続いた。
 固唾を呑んで見守るほかの役者が、長い間に痺れを切らす。
 その直前、睨んだままのマヤの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
 「切るが良い。おまえさまに切られるなら本望じゃ」
 掠れた声が途切れると同時に一真の斧が振りあがった。
 切られた紅姫は倒れる。
 それを見下ろした一真の仮面が、一瞬で崩れた。
 瞼を閉ざしただけのマヤの表情が、まるで穏やかに佇む仏の表情に見えたのだ。
 「そこまで」
 黒沼の合図が響いた。
 「北島!
  いい演技だった。今の表情だ!
  忘れるなよ」
 マヤは目を開けて立ち上がる。
 涙を滲ませた目もとを袖で擦り、おもむろに頭を下げた。
 「ありがとうございました」
 黒沼が、マヤの肩をポンと叩く。
 「お疲れさん。
  今日はもう上がりだ。帰ってゆっくり休め」
 「はい」
 沈んだ表情でマヤは答えた。




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 翌日、キッドスタジオには、当日役者たちが着る衣装が、運ばれた。
 演劇協会側の手配だった。
 姫川亜由美のチームでは大都芸能が資金を援助し、豪華な衣装が用意されたのに比べ、
 黒沼チームの衣装は、質素なものばかりだった。
 天女の衣装もぱっとしない。
 そこへ、紫の薔薇の人から衣装が届いた。
 この日のために、真澄が自ら職人の元へ出向き特別に誂えさせた一級品の打掛だ。
 広げた打掛には見事な紅梅が描かれ、刺繍が施されていた。
 光沢感のある滑らかな生地に、マヤはそっと触れた。
 触れた場所から真澄の温かい気持ちが伝わるようだった。
 袖で涙を拭うと、マヤは運送業者に扮する聖を見上げる。
 まだ迷いはある。それでも精一杯の笑顔を作る。
 「ありがとうございます。
  どうか、あの方に伝えて下さい。
  これまでずっと支えて下さったあなたのために、最高の紅天女をお見せします、と」
 「わかりました」
 
 
 銀杏並木が金色に染まり、冷たい風が木々を揺らして通り過ぎる。
 空はすっきりと晴れ渡り、雲一つない。
 シアターXの広い会場が人で埋め尽くされ、幕が上がるのを待ちわびている。 
 マヤは紅天女の衣装に身を包み、舞台袖に控えた。
 準備は整った。
 他の役者や、多くのスタッフたちが張り詰めた空気の中、息を潜めるようにしてそのときを待っている。
 マヤは静かに瞼を閉じた。
 真澄から贈られた打掛から、聞こえてくる。
 「もし途中で君が下手な演技をしたら、俺は容赦なく席を立つ」
 記憶という名の幻聴に、マヤは頷く。
 (見ていて下さい、速水さん)
 息を吸い込むと呼吸と同時に、マヤは自分の奥深くに眠る大きなうねりを呼び覚ます。
 音もなく幕は上がり、舞台が証明に照らされる。




 数日後の夜のことだった。
 聖唐人の運転する車から、マヤは降りた。
 すぐ目の前には、濃紺の空へと高く聳える建物がある。
 一見ホテルのような広々としたエントランスホールは、既に目に馴染んでいた。
 今度こそはもう二度と来ることはないだろうと思っていた場所だ。
 そう、そこは、真澄の所有する部屋のあるマンションだった。
 なぜ、また来てしまったのだろうか?
 溜息を漏らして最上階を見上げる。
 そんなマヤの反応に聖が怪訝に問う。
 「どうかなさいましたか?」
 「い、いえ」
 「そうですか。……では参りましょう」
 「はい」
 背の高い聖の後について、エントランスへと入る。


 試演で見事に紅天女を勝ち取ったのはマヤだった。
 そのマヤを、紫の薔薇の人が自宅へと招待したのだ。
 すぐに返事はできなかった。
 一日の猶予をもらい、その場での返事は避けた。
 今までなら喜んですぐに受けていただろう。
 だが、真澄のマンションで抱かれようとしたことなどを思い出せば、単純には喜べなかった。
 彼とはその日以来、まともに顔を合わせていなかった。
 人前で会うときも、目も合わせず、挨拶程度の言葉しか交していない。
 何より、紫織との結婚式も迫っていた。
 紫織が真澄のマンションを訪ねてきたとき、マヤは真澄の幸せを守りたいと、心からそう願った。
 紫の薔薇の人として紅梅の打掛を受け取ったときは、
 女優としてこれからも真澄に愛される存在になろうと、決心したのだった。
 だから、最後まで諦めずに試演に挑むことができた。
 今も、真澄の幸せを願っている。
 その思いに偽りはないが、恋心が消えたわけではない。
 胸の奥にくすぶり続ける思いは、導火線に火がつきさえすれば、あっという間に起爆するだろう。
 会ってはいけない。
 自分に言い聞かせてマヤは受話器を取った。
 「聖さん、あの……私……」
 喉まででかかった言葉がなかなか出てこない。
 言葉を詰まらせていると、聖が切り札を出してきた。
 「ずっと名乗り出ることを躊躇っておられたあの方の勝手をお許しください。
  ですがどうかマヤ様、主の最後の願いを聞き入れいただけないでしょうか?」
 「最後?」
 聖は質問には答えず、畳み掛けるように言葉を重ねる。
 「あの方と会って真実を確かめてください」
 その台詞に、マヤは断りを返すことはできなかった。


 マンションのエレベーターに乗り込み、聖が押したボタンは『56』。
 困惑を浮かべて光った階数を見上げるマヤを、聖が振り返った。
 彼は全てを見透かす目で言う。
 「ご存知でしたか?このマンションは、最上階は一部屋しかありません」
 マヤはまじまじと聖のすました顔を見つめた。
 何を言おうとしているのか、すぐに理解して、フッと笑う。
 「はい、何度か来たことがありますから」
 聖は、確信を得て言う。
 「やはり、あなたはあの方の正体に気づいてたんですね」
 頷くと、とたんにマヤは顔を曇らせる。
 「聖さん、お願いがあります」
 「なんでしょう?」
 「車で、待っていてもらえませんか?ご挨拶を済ませたら、すぐに帰りたいんです」
 「……わかりました」




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 聖は、最上階までマヤを送り届けると、
 乗ってきてエレベーターで階へと降りていった。
 一人残されたマヤは玄関の扉を開く。
 開けた瞬間、薔薇の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 棚に置かれた白い陶器の花瓶に、紫の薔薇が生けられている。
 瑞々しい花弁を大きく広げ、凛と咲き誇っている。
 以前と変わらず、来るたびにそこに紫の花は生けられていた。
 一瞬、ハンカチを目に当てるべきか迷う。
 慌てて首を振り、陥りそうになる錯覚を振り払う。
 挨拶をして、すぐに帰ろう。
 もう一度心の中で意思を固めると、靴を脱いで用意されているスリッパに履き替えた。
 リビングの前に立つと、事務的に扉をノックした。
 しばらく待っても返事はない。
 扉の向こうから明かりが見えているが、人の気配はまるで感じられなかった。
 リビングの広さを思えば仕方がないのだろうが、それにしても静か過ぎる。
 緊張が高まり、扉のノブを握る手が僅かに震える。
 マヤは唾を呑み込むと、扉を開いた。
 視界が広がった刹那、大きな影が迫ってきた。
 煙草とコロンの香りが混ざり合った匂いが、鼻先を掠める。
 気がつくと、マヤは抱きしめられていた。
 
 驚くあまり、マヤは声も出せない。
 締め付けるほどにぎゅっと抱き締められ、搾り出すような掠れた声が落ちてくる。
 「会いたかった」
 視界がにじむ。
 (早くお礼を言って、帰らないと。聖さんが待ってる)
 わななく唇からマヤは声を上げた。
 「私も、あなたに会いたかった」
 抗えない欲求に、悲しいほど逆らえない。
 硬く閉じた瞼から涙が零れ落ち、堪らず彼の背に腕をまわした。
 「君は、知っていたのか?俺が紫の薔薇の人だということを」
 マヤは頷く。
 「ごめんなさい。黙っていて」
 自分でも驚くほど素直に話していた。
 「謝るのは俺のほうだ。
 ずっと君を苦しめてきた。すまない」
 「いいえ。もういいんです。
 苦しみも悲しみも、……あなたを思う切なさも、そして恋の喜びも、
 全ては紅天女を演じるためのものでした。
 これまでしていただいた援助を思えば、感謝してもしきれないぐらいです」
 ひとしきり思いを伝えることができると、マヤは自分を取り戻した。
 真澄の胸をやんわりと押して体を離すと深く頭を下げた。
 「今まで本当にありがとうございました。
 結婚式には出席はできませんが、心から速水さんの幸せを願っています。
 どうか、お幸せに」
 マヤは内心で潔く身を引くことができた自分を誉めた。
 顔を上げると同時に背を向ける。
 あとは逃げるだけだ。

 走りかけて、腕を捕らえられる。
 素早く開いた扉を真澄が閉ざし、両肩を押さえて扉にマヤの背を押しつけた。
 「帰さないといったら、君はどうする?」
 「ば、馬鹿なこと言わないでください。
 速水さん明日結婚式なんですよ」
 精一杯の虚勢を張ったつもりだが、実際には弱々しい声になっていた。
 間近で見据える真澄の双眸は、マヤの心の奥を見透かすように凝視する。
 視線を合わせていられず、顔ごと逸らす。
 その隙をつくように、真澄に向けた頬に唇が寄せられた。
 マヤは思わず息を止め、体を硬直させる。
 頭から火でも噴出しそうな勢いで赤面した。
 そんなマヤの反応を、真澄が愛しげに目を細め、スッと彼女から離れた。
 「ささやかだが、君の試演の成功を祝って食事を用意した。
 せっかく来たんだ。食べて帰るといい」
 キッチンへと向かう真澄の背を、マヤは口付けられた頬を押さえて呆然と見つめた。



 「試演の成功を祝って乾杯」
 赤紫の液体で満たされた二つのグラスが合わせられる。
 真澄の誘いを断りきれなかったマヤは、
 ダイニングテーブルで彼と向き合うことになってしまった。
 卓上には、真澄が腕を振るった料理がずらりと並べられている。
 その皿から、食欲をそそる香りが立ち上り、マヤは瞳を輝かせる。
 「私のためにありがとうございます」
 「喜んでもらえて何よりだ。君はよく食べるから作りがいがあるよ」
 どの料理もマヤを満足させ、空腹だったこともあり、
 食事が始まれば先ほどまでの緊張感は解けていく。
 穏やかな笑顔で、真澄が手にしたグラスを揺らして、ワインの香りを楽しんでいる。
 そんな悠然としている真澄が、マヤは不思議でならなかった。
 明日になれば結婚式を挙げるというのに、花嫁となる紫織ではなく自分と過ごしている。
 これでいいのだろうかと、マヤのほうが不安になる。
 そのことには触れられず、差障りのない話題で時間は過ぎる。
 皿は綺麗に平らげられ、ワインは一本、二本と空になる。
 真澄に勧められるままにワインを飲むうちに、マヤの思考は徐々に鈍る。
 真澄がデザートを出す頃には、マヤはすっかり酔いつぶれてテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。




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 気づいて目を開けたマヤの目には、青い空と白い雲が映った。
 ぼんやりと狭い空間を眺め、隣でハンドルを握る真澄と目が合った。
 私服姿の彼はすぐに前方に視線を戻してから、声をかけてきた。
 「おはよう。よく眠っていたようだな。気分は悪くないか?」
 「おはようございます。平気です……」
 反射的にそう答えたマヤは、ガラス越しに明るい空を見つめながら記憶を辿る。
 リビングで真澄と食事をしたことまでは思い出せた。確かそのときは夜だったはず。
 既に朝になっていることにマヤは青ざめる。
 泣きそうになりながら、真澄に謝る。
 「ごめんなさい、速水さん。今日結婚式ですよね。
  私のことはいいですから、早く紫織さんのところに行ってあげて下さい」
 「もういいんだ」
 朝日を受けた横顔は清々しい。
 「何言ってるんですか?全然よくありませんよ」
 「君が言ったんだろ?俺に幸せになれって」
 「そうですよ。だから……」
 マヤの言葉を遮り、真澄は言葉を繋げるようにしてはっきりと言う。
 「だから、君を選んだ。俺が長い時をかけて愛し続けてきた人だから」
 マヤの時が停止する。
 かき消されてしまわないように、真澄の言葉を頭の中で録音し再生する。
 それでも信じられずに、否定する。
 「嘘……」
 「嘘じゃない。
  紫の薔薇の人の正体と一緒に、これからもずっと隠し続けるつもりでいた。
  だが君は、俺を見ていた。紫の薔薇の陰に隠れる俺を、見つけてくれた」

 反応のないマヤを横目で確かめると、真澄は運転に集中しつつ話を続ける。
 「君をベッドに連れて行ったときのことだ。
 途中で逃げ出した俺を、君は『紫の薔薇の人』ではなく俺の名を呼んでくれた。
 幻影を重ねて抱かれるのではなく、
 俺だと分かっていて身を委ねようとしてくれたことが、何よりも嬉しかった」

 大胆に振舞っていたことが今更ながらに恥ずかしくなる。
 マヤは穴があったら入りたい心境になった。
 両手で顔を覆い、くぐもった声を出す。
 「もう忘れて下さい。演技のためなんです」
 「無理だ。君に捕らわれた俺の魂はもうどこへも行けはしない。
 君を得るために俺は全てを捨てる」
 マヤは息を呑む。縋るように真澄を説得する。
 「私なんかのために、そんなの絶対ダメです。
 紫織さんを傷つけてまで、速水さんと一緒にいられません」
 「君のためじゃない。
  俺は俺のために、君を浚って逃げるんだ。
 君の同意など初めから求めてはいない。
 現にこうして君を車に乗せて、飛行場へと向かっているしな」
 「え?」
 顔を上げて初めて気づく。
 走っている道路は高速道路で、しかも標識は成田空港行きを掲示している。
 
 真澄が不敵な笑みをマヤに向けた。
 「海外へ高飛びしたいところだが、沖縄あたりで妥協しておくよ。
  どうせ君はパスポートなど持っていないだろうからな」
 いつもの調子を取り戻し、マヤを小ばかにする。
 その挑発にマヤは次第に怒りを覚えて反撃する。
 「ええそうよ。必要ないんだから持つ必要もないでしょ。
 言っておきますけど、私は絶対行きませんからね」
 「来るよ」
 「行きません」
 彼の顔が真顔になる。
 マヤがはっとするほど真剣な眼差しだ。
 「別の相手を選ぶということは、
  どれだけ請うても得られぬ魂を死ぬまでひたすら求め続けるということだ。
  いっそ気が狂ったほうがましだと思えるほどの苦しみを味わうに違いない。
  俺には耐えられそうにない。
  そんな苦しみに、君は耐えられるのか?」
 台詞は鋭い矢となり、マヤの心に深々と突き刺さる。

 真澄の片手が伸びてきて、僅かに震えていたマヤの手を強く握る。
 「きっと、後悔しますよ」
 「今この瞬間に地球が滅亡したら、後悔するかもしれないな」
 「どういう意味ですか?」
 ニヤリと意地の悪い笑みを覗かせた真澄を、その意図を推し量れずマヤは首を傾げる。
 「君をまだ、抱いていない」
 瞬時に、マヤは頭の先から喉もとまで真っ赤に紅潮する
 それを真澄は噴出して大笑いする。
 からかわれて怒鳴り返そうと息を吸い込む間に、またも意味不明な言葉が飛んでくる。
 「俺が運転中で良かったな」
 「なにが?」
 怒りが納まるわけもなく、喧嘩腰になる。
 意に介さず真澄は楽しくて仕方がないとでも言うような顔をしている。
 「空港へ着いたら、君を抱き締める。
 それからキスをして、もう二度と離さないと君に誓う」
 艶やかな漆黒の髪がさらさらと流れ落ちる。
 火照ったままの顔から熱が引くこともなく、俯けた顔をあげられそうにない。
 握り締める温かい手を振りほどくことは、マヤにはできなかった。
 
 空港へ着くと、マヤは青い空と流れる雲を仰いだ。
 明日の空がどんな色をするのか、想像もできない。
 荷物は、車の後部座席にちょこんと乗せられたハンドバック唯一つ。
 それ以外は何も持ってきていない。
 身一つで、真澄についていく。
 二人を乗せた飛行機が空高く飛び立つ。





 【END】





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